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ゆるんでいく日々

心理カウンセラー原口実紅のブログ

好きなことだけやって生きていこうとするのをやめた時、いい感じに心が平和になっている。

みくコラム
神奈川・湘南の心理カウンセリング、心理療法FAPでのトラウマ治療

こんにちは!大嶋信頼先生開発「心に聞く」&「FAP療法トラウマ治療」専門の心理カウンセラー原口実紅です。

この記事をざっくり言うと…

  • やりたくないことをやめて、やりたいことをやった方がいいのは自明の理なので必要以上に強調しなくてもいい
  • 例外として、そのことに抵抗がある人は『ものすごく』やりたくないことをやって来た可能性があるので一時的に「好きなことだけやる」系の考え方にハマってバランスを取る必要がある
  • しかしそれもやりすぎると自我が肥大化したり、混乱したり、かえって窮屈になるので、どこかで卒業する
  • そもそも「本当にやりたいか?やりたくないか?」は意外と自分でも分からないので、あまり真剣に考える必要がない
  • 「まあなんとなくやりたい気がする」くらいで始めたことをとりあえず一生懸命やってみるというのが心の平安としてはベスト

 

それって、当たり前のことなんじゃ?

最近、好きなことを仕事にしようとか、やりたいことをやろう的な言説に違和感を感じる。
なんでだろう?私もあれだけ「我慢をやめて好きなことをしよう!」と言っていたのに。

いや今でも、もちろん同意はできる。
そりゃーやりたくないことを嫌々やっていると生産性が下がるし、自分も周りも笑顔にしない。それならやりたいことを気持ちよくやっていた方が自分も機嫌がよくなるし周りの人も喜ぶ。
脳もその方が発達するらしいしストレス値も下がるから病気にもなりにくいだろうし、やりたくないことをやめてやりたいことをやった方がいいのは自明の理。だから、それだけじゃない?それ以上でも、それ以下でもないく。

そりゃーやりたいことをやった方がいいのは明らかなんだけど、この違和感の正体は、それってわざわざ強調することだろうか?ということ。
当たり前のことを言っているだけで、別にそれ自体がすごい発明でも、ありがたい教えでもないし、嫌なことややりたくないことをやっている人が負け組ってわけでもないだろう。

 

やりたいことはわからないしわかる必要もない

だいたいそれが「やりたいことなのか?やりたくないことなのか?」なんて、意外と自分ではよくわかんないものだし、考えれば考えるほど分からなくなるので「まぁやりたくなくはないかな〜」程度でいいんだと思う。

(人にはそれぞれ「絶対無理!」ということがあるので、それは避けてもいいと思う。その場合は、他の誰かがやるし、誰もやらなければ生態系が対応してくれるハズ)

そんなわけで「絶対無理」以外は、そもそも自分の行動に「これはやりたいこと」「これはやりたくないこと」という物差しを持ち出し出すと、きっと窮屈になる。遊びがないというか。可能性が潰されるというか。

生きること自体、そんな大層な価値もないわけだから、その時間を何に使っても、特に価値は上下しないと思う。(0にいくら掛け算しても0)
やりたいことやったっていいし、やりたくないことやったっていい。これも当たり前だけど。

 

やりたいことやろうビジネスの必要性

う~ん、でもこう書いていて思うのは、やっぱり、それでも、そんな当たり前のことを言ってくれる人の必要性。

と言うのも『ものすごく』やりたくないことばっかりやっている人にとっては(それこそ「絶対無理!」なことを自分の生き方に強いている人とか)やっぱり意識して、努力して、自分がやりたくないことをやめてやりたいことをやるんだ!という意気込みは、ある時期には必要だと思う。

他人の目を気にせずちょっと痛いくらいに思い切らないと自分自身の殻は破けないこともあるし、本人に納得感があれば、その行為は自分の人生を向上させようと奮闘した、誇るべきものだ。

「やりたいことやめて、やりたいことやった方がいいよね」っていうのは当たり前のことなんだけど、一部の人にとって「そうだよね!」と思えなかったりする。
だから思えるようになるために、しつこくそれを言い聞かせてくれる人は必要なのかもしれないし、その考え方にハマることでバランスをとり、生きやすくなるという面もある。

 

やりたいこと探し隊のデメリット

けど、まあそれも一時的なもので、結局「なんでもいいや」に収束していくのが理想。つまり、「やりたいことなのかよく分からないけど、とりあえずやっている」という状態で、それが人生の実態なんじゃないかと思う。

だから「やりたいこと探し隊」みたいな価値観にずっと止まっていると自我ばっかりが発達して「これこそやりたいこと」というものは見つからず(存在しないから)心の健康度は上がっていかない。

本当にやりたいことだけやっている状態の場合でも、自分で「今好きなことをしていてとっても幸せだなあ」なんて自覚は持てないはずで、本当にその状態の時は忘我の境地(夢中になっている状態)のはずなので「好きなことしかしてなくてめっちゃハッピー!」と言葉にした時点で若干の嘘になる。
だから「私はその状態なんだ!」と強調したくなるタイミングの時は、何か錯覚している可能性があって(何かに酔っているとか)それも要注意だなぁと思う。

 

心が平和なのは「なんでもいい」状態

どこかで「好きなことだけ」という価値観を卒業して「なんだか気がついたらやることになっていたから、とりあえず一生懸命やる」という状態に収束していくと、心が平和になる。

たとえ途中で辛いことや面倒なことがあっても「好きなことのはずなのに」などと思い悩む必要もなく「まぁやってみるか」と前向きに取り組める。
そのうち、めっちゃ楽しい〜という瞬間が来ても、「やっぱりこれが天職!」とか思わずに「へーこんなこともあるもんなんだなぁ面白いなぁ」と感心して次に進むという感じで、心の平安は案外そんなところにあるんじゃないかと思う。

これは、仕事や社会活動だけじゃなくて、子育てとかもいい例だと思う。

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まとめ

やっぱり基本は「やりたくないことはやらない方がいい」から、「気がついたらやることになっていた」ということも、「まあなんとなく、やりたい気がする〜」程度には、やりたいことがいい。
(誰かに押し付けられて気がついたらやることになっていたとか、やりたいと思った気持ちすら嘘だった!と後から知るなどの場合は、別の問題がある(=選ぶ主体が実は自分じゃない状態):後述)

そして、なんにしろ夢中になれることに出会えたらそれはそれでラッキーだし、そうじゃなくても、普通に気持ちよく爽やかに生きることも、可能なはずなんだ。

 

記事を書いてみて気づいたこと(さらなる殴り書き)

  • 例外の話。
    これは人権が尊重されない環境で生きてきた人で、一時的に「好きなことだけやる」系の考え方にハマってバランスを取る必要があるのは、物事を選ぶ主体を「自分」に変えるためなのかも。
    (ただ、ここでも「自分の本当の感覚が実はわかってない」ことから「したいと思い込んでいるだけで本当はやりたくないことをやっている状態」という問題が起こる)
  • やりすぎると自我が肥大化するのでどこかで卒業する(卒業するタイミングも自分の感覚がわからないままだと分からないし一種の依存状態になるのでなかなか卒業できない)
  • 必要なのは「やりたいことをやる」ことではなくて、自分の感覚を取り戻し、自他の人権を尊重できるようになることなのでは?
  • となると、やっぱり好きなことやろうよ系は劇薬。
    大切なのは失われた自尊心(自分の人権)を回復させて自分の感覚で生きられるようにすることで、そのために1役は買っている面はある(自分にひどいことしてたんだ!と気づく)けど、それ以外には…。好きなことに溺れる必要も、好きなことで裕福になる必要も、平和に生きていく上では必要ない。(酔って抜け出せなくなるリスクや貧困になるリスクもあるし)
  • FAP療法(心に聞く)はそこ(自分の感覚を取り戻す)に直接的に対応しているので仕事を辞めるなどのリスクもなく円満に、求める姿(まともで平和な大人)になれるのは魅力だな。

 

FAP療法のカウンセリング

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